IE9ピン留め
全ての知っていることは3語で語ることが出来る
菊地成孔関連の本を買う.

1.東京大学のアルバートアイラー キーワード偏
2.ユリイカ 4月号 特集 菊地成孔

世の中には,難しいことを簡単に話そうとする人と,簡単なことを難しく話そうとする人がいる.
また,世の中には,面白いことをつまらなく話す人と,つまらないことを面白く話す人がいる.

「難しいことを簡単に話そうとする人と,簡単なことを難しく話そうとする人がいる.」と口にする人の多くは大概難しいことを簡単に話そうとする人達で,
「世の中には,面白いことをつまらなく話す人と,つまらないことを面白く話す人がいる.」と口にする人の多くは大概つまらないことを面白く話す人達である.

そして,難しいことを簡単に話そうとする人の多くは面白いことをつまらなく話す人で,簡単なことを難しく話そうとする人の多くはつまらないことを面白く話す人であると思っている,
私の少ない人生経験から.

また,私は,
前者について.人間としては好きだが,その人が作るものがあまり好きではないことが多い.
後者について.人間としては嫌いだが,その人が作るものが結構好きなことが多い.
良い悪い,役に立つ立たないは全く別の話だが.

菊地成孔は間違いなく後者のタイプで,彼の本を読んでいると情報としては無意味な文章が大部分を占めていて,時々いらいらするときもあるのだが,1度読み出すと止まらなくなってしまって,「また,読者を振り回すようなこと言って,,,」と思いながらも気づくとあっというまに読み終わっている.とにかくリズム感が良い.

後者タイプの人間は自分の周りに適度にいると生活が潤うが,だけだと疲れて仕方ない.

私には座右の銘というか,モットーがある.
「全ての知っていることは3語で語ることが出来る」
ウィトゲンシュタインの論理哲学論考の表紙で引用している,キュルンベルガーとかいう人の言葉.ウィトゲンシュタインは哲学と哲学ではないものの境界を明確に示した人だが,その背景には単純に,無意味なことをいつまでもしゃべり続けている人たちの口を閉じてやりたいといういらだたしさがあったと思っている.

後者のタイプは自分の周りにいてくれてもかまわない.が,自分がなるのは御免だ.
# by my9my9my | 2006-03-31 05:32
知らないことを知っていること
自分の知識や教養のなさに時々辟易する.そんなことを以前に研究室の後輩に話したら,クイズ好きのその人から面白い答えが返ってきた.

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問題:あなた自身,知っていることと知らないことはどちらが多いか

答え:知っていること.
証明:以下の手順で明らかになる.
①表紙に「不知ノート」と書いたノートを用意し,知らないことを箇条書きで書き出す.例えば「ゲーデルの不完全性定理を知らない」や「ウィトゲンシュタインの言語ゲームを知らない」と記入する.
②箇条書きにした知らないことの一つ一つに番号をつけていく.1,2,3,・・・,N
③表紙に「既知ノート」と書いたノートを用意し.知らないことと同じだけの番号,つまりN個の番号をふる.
④「既知ノート」の番号Kの項に「私が不知ノートのK番目を知らないという事実」と書く.
⑤これでN個は確実に知っていることになる.
⑥N+1個目に何でもいいから知っていることを書く.「1+1=2」でいい.

以上の作業を踏まえると,知らないことはN個で,知っていることはN個以上であることが証明される.
Q.E.D.

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一瞬ヒヤッとしたが,直感でおかしいと思ったとおり,やはりこの証明は間違っていると思う.
簡単にいうと,英語で"I have little idea."と"I have no idea."のlittleとnoの違いだろうか.前者は「ほとんど~ない」と訳されて,後者は「全く~ない」と訳される.「ほとんど知らない」という言葉は日本語では時々「少し知っている」と言い換える場合があるが,「全く知らない」を「~知っている」の形には出来ない.ほとんど知らないことは言葉の定義で知っていることと扱われるが,全く知らないことはいつまでも知らないことなのだ.
つまり,知らないことが書かれていると思われた不知ノートに書かれた内容は,「ゲーデルの不完全性定理」や「ウィトゲンシュタインの言語ゲーム」などの名前程度のことなら知っていることの集合であって,本当に知らないことは1つも書かれていないことになる.
そもそも知らないことは,頭にその存在すら思い浮かばないのだから,言葉にしようがない.
「世界は私が知っていることの全て」という独我論の立場では,上記の証明は正しいのかもしれない.世界に人間が私1人だけだったら,私も上記の答えを認める.私の知っていることの外側が存在することを,証明する術はない,私1人の場合は.

人間と他の動物の違う最も大きな点は言語を持っていることである.人間は言葉を使ってそれぞれが持つ知識を共有することが出来る.私以外にAさんがいる場合を想定する.私が最初に既知ノートを用意して,知っていることを箇条書きにする.次に,Aさんが既知ノートに知っていることを箇条書きにする.私の既知ノートに記入されておらず,かつAさんの既知ノートに記入されているものが私の知らないこと,すなわち本来不知シートに書かれるべきであったことだと考える,2人の場合は.さらに,Bが加わって,Cさんも加わって・・・・,と進めていくと,全人類の知っていることの集合が世界のすべてであり,限界であるという考えにぶつかる.私はこの考えを認める.全人類が知っていることの外側の存在,つまり全人類が知らないことが存在することは,どんな方法を用いても証明不可能にしか思えない.私の既知ノートに記入されておらず,かつ私以外の全人類の既知ノートに記入されているものの集合が,本来私の不知ノートに書かれるべき内容となると考える.
このことは,科学の歴史を例にとっても,相対性理論や量子力学の分野が示してきたことが世界の限界であると一般的に認知されており,直感とも合致するのではないか.

ここまで考えて,ある考えが脳裡に浮かび一瞬ヒヤッとした.私が知っている全人類っていったいどれほどなのか.顔を知っている人でもせいぜい数万人ではないのか.まったく知らない人のことまで全人類のなかに含まれていやしないか.
どうやら,もう少し考える時間が必要みたいだ...
# by my9my9my | 2006-03-28 23:31
さよなら,学生生活
今日は大学で学位授与式があった.ようするに卒業式のことで,長い長い学生生活とも今日でさようなら.

大学に久しぶりに行ったら,キャンパスの桜はもう満開だった.別に花粉症でもないけどなんか鼻の辺りがむずかゆいような,春特有の雰囲気に満ちていた.
卒業生はみんな友達と大きな声で祝いあっているが,私は1年遅れの卒業で,同じ研究室の今年修士2年のもう一人の人は留年してしまったので,一人での行動だった.少しさびしいがこの歳になるとそんな寂しさにも慣れてしまっていて,そんな自分の変わりように少し驚いた.
式が終わって,研究室に帰り先生にお別れの挨拶に行った.あっという間の短い挨拶だ.そうゆう先生だから仕方がない.
助手とお昼を食べに行ったら,そのときにもうすぐ助手を辞めて民間で働くんだいうことを教えてもらった.以前から研究職での自分の未来に不安を感じているということをちらほら聞いていて,就職先の職種の話等を聞いていたら,きっとよい選択をしたんだろうなと思った.

昼過ぎの太陽は最近にないまぶしさで,やはり春なんだと改めて思う.社会人になってしまって,新しい環境の中で,今の価値観がひっくり返されてしまうことが怖くて仕方ない.この大学院の3年間は意味があるものになるのか,それを否定される結果になるのが恐ろしい.しかし,私には明るい未来がある.のか.
# by my9my9my | 2006-03-27 18:32
サブタレイニアン ベジタリアン
少し前にユリイカかなにかでmerzbowの秋田昌美が,「動物の肉を食べるのは時代遅れ,文明人のすることではない」といった類のコメントをしていた.肉を食べることについては今までにもよく疑問を感じていたが,私は未だに肉を食べ続けている.肉を食べない所謂ベジタリアンの主な主張は次の3つである.

1.健康的でない
2.動物がかわいそう
3.宗教上禁じられている

1と3は私には関係ない.健康など興味がないし,自分の勝手だから他人にいわれる筋合いはない.また,宗教にも興味ない.わたしが時々矛盾を感じるのは,2の内容だ.
日本人が食べる肉の種類は牛,豚,鶏の3種類が主となる.この3種の動物と他の動物の違いは何か.ベジタリアンの少ない日本では動物愛護と動物の肉を食べることの矛盾がたくさん聞こえる.鯨を殺すのは可愛そうだが,牛が殺されてもかまわない.矢が刺さった鴨は話題になり可愛そうだと助けるが,養鶏場で鶏の首が日々大量に落とされることには無関心だ.ペットの豚はかわいいといいながら,豚肉は食べる.隣の韓国で犬を食べることを野蛮だと馬鹿にするが,犬と上の3種の動物の違いは考えない.
この矛盾の原因は,日本では生きている動物が食用肉になる過程を見る機会がほとんどなく,スーパーのパックに入った食用肉にしか触れる機会がないことにあると思う.もちろん,スーパーに並んでいる肉が,もともと生きていた動物の死体の一部だと誰一人知らないわけではない.が,視覚的なリアルなイメージを伴った記憶でその過程が結ばれた場合と,概念的な「食用肉は生きていた動物の死体の一部である」といった知識だけでその過程が結ばれた場合では,この問題に対する興味や志向の程度とそこから生じる他の知識とのネットワークのつくられ方が異なってくると考えられる.
ベジタリアンに興味があったのでウェブ上でいろんなサイトを探した時期もあったが,それでも未だに肉を食べ続けている.
一番の理由はベジタリアンにも矛盾を感じるからである.ベジタリアンにも程度があるが魚を食べるベジタリアンもいる.動物はだめなのに魚ならよいのかといいたくなるが,このベジタリアンは本当のベジタリアンではないといった扱いである.いくつかあるベジタリアンに共通していることは肉を食べずに植物を食べて生きているということになる.私の一番の疑問は,それなら動物と植物の違いは何か,植物は生き物ではないのか,という一点だと思う.この疑問はベジタリアンに対する常套批判らしく,どのベジタリアンサイトにもその受け答えを載せているが,私を納得させる答えは1つもなかった.酷い答えでは「植物が枯れているのと,ペットが死んでしまったことが一緒であるはずがない」といった類のもので,違いは何かの質問に違いが無い訳がないと答えているだけで終わっている.動くか動かないかという答えに対しても納得できない.生命を絶つというのは動いていたものを動かなくすることではないからだ.
人間は必ず他の生き物を食べて生きている.生き物でない砂や石を食べては生きられない.自分が生きるには他の生命を奪うことが不可避であるから,問題は肉を食べるか野菜を食べるかではなく,人間が生きていく為に殺さなくてはいけない他の生き物を最小限にする為に,食べ物を粗末にしないことであって,誰かが自分が食べない肉を食べているからといって非難することはおかしなことだと思うのだ.
おいしいものを食べると人生が楽しくなった気がする.だから私はおいしいと思うものは肉,魚,野菜の区別をせずしっかりと食べて,「牛さんありがとう,豚君ありがとう」と心の中でつぶやいては残さずたいらげるのだ.
# by my9my9my | 2006-03-24 18:55
ワンダフルデザイン,ワンダフルアート
デザインとアートの明確な境界を,私は持っているつもり.形態に機能や目的を見出せるものがデザイン,見出せないものがアート.この2分法で世の中を眺めてみると,案外しっくり分けられる気がする.よい例が思いつかないが,たとえば交差点の真ん中で全身を金色に塗りたくった人間が絶えず手を振りながら動いているのを見かけた場合,そこに機能や目的を見出せない段階では,それを新しい類のパフォーマンスアートと考えるのではないか.その後で,私が「実はその人間は交通整理をする人間で,金色に塗りたくったのは運転手の目に気づきやすくするためで,手を振りながらの動きは車の誘導方向を示しているんです」と説明した場合,さっきまでアートだったものが交通整理の為のデザインに変わっていることに気づく.デザインとアートの境界は作品を見る側がそれにどう意味づけをするかの違いであって,けっして作品が創られるプロセスの違い(作り手が作品に目的を持って創っているか否か)ではない.と,私は信じている.
こうゆう視点をある日持ったとたん,アートというものが突然つまらないものに見えてくる.「アートというものはその裏に何かを持っていると期待させるが,実は裏に回りこんで見れば何も無い張りぼてなのだ」と.デザインが何の役に立つのか,というのは誤りで,何かの役に立つもの,目的を持った形を持っているものがデザインである.それでは,アートは何の役に立つのか.何の役にも立たないことがアートなのか.私はアートに絶望し,デザインに傾倒した時があったが,今は少しずつ変わってきている.
例えば,デザインされたやかんを考えてみる.やかんの目的は,上手に水を注げること,湯を沸かすことに耐えられること,必要な容積をもっていること,安定した取っ手があること等々となる.目的は全て明確な命題の形で表され,その命題の内容を満たしているか否かの2値で表される.デザインは完全に論理に従った形態操作となる.クリストファー・アレグザンダーの「形の合成に関するノート」ではこの操作方法が語られている.その為,そこで挙げられた命題の範囲内において,二つのやかんが並べられた場合,両者の優劣が明確に決まる.片方は優れたやかんで,もう一方は悪いやかんであると.だから,デザイナーは適切な命題の選択とその命題に対してより高い水準にする(例えば,より水がこぼれないように注げる)ことが課題となる.
押入れの掃除をしていて,ごみを出す度に思うことがある.機能というのは明確に優劣が分かるから,以前より機能が優れたものが次々に生まれる.機能だけの製品はより機能的な製品があらわれるとその寿命を終え,その行く先はゴミ箱になる.大量のごみを生み出すことの是非は考え出すと難しい問題だから,ここでは単純に好ましくないことと考えたい.寿命を延ばすために耐久性を持たせることはこの問題の解決には全くならない.機能的でない,劣ったものと分かりながらいつまでも所持し続けなくてはいけない苦痛は人生をつまらないものにする.建築の分野では今サスティナブルという言葉がもてはやされているが,多くが単純に耐久性の向上を言い換えたに過ぎないものばかりに見える.
もっと,積極的に寿命を延ばす方法はないのか.
自分が長く所有しているお気に入りの物を考えてみると,その形はどうしてそうゆう形をしているのか分からないという部分を持ったものが多いと感じる.言葉として(命題として)説明できないところに価値を置いているから長い期間愛用され寿命の長いものとなるのではないか.その形に意味はないと考えて生きるよりも,その形の意味は言葉に表せないだけと考えるほうがどれほど人生を楽しくするか.要するにアートにその方法の答えがあるのではと考えている.アートは素晴らしいと最近は再び思うようになっている.
# by my9my9my | 2006-03-23 22:37
東京に自動車は必要か
よく思うのだが,東京に自動車は必要なのか.車が吐き出す排気ガスや騒音が私達に与える悪影響に見合うだけの恩恵を,私達は受け取っているのだろうか.一部の人間だけが得をしていないのか.交通機関の発達している都心でどうしてわざわざ自動車を使うのか.交通麻痺が起こっていることを知りながら自動車に乗り,どうして運転手はいらいらしているのか.自動車から吐き出される排気ガスや粉塵を,どうして自動車を使わない人間たちが吸わなくてはいけないのか.自動車にまつわる矛盾が街を歩いているとたくさん見えてくる.
東京は土地の広さに人の数が見合っていない.人と人が近すぎる.近すぎてすべての人達を相手に出来ないから,その人達を無視することでやり過ごす.無視するからマナー違反を平気で人前でしてしまい,そのことを少しも恥ずかしく思わない.東京に住む人たちの病気だと思う.街中を歩いていても車との距離の近さが異常なことにも気づかなくなってしまっている.
最近,喫煙者に対する風当たりが強い.嫌煙家の主張は吸いたくないタバコの副流煙を吸わされるのは納得いかないというのが一番だと思う.しかし,どうして彼らは自動車が吐き出す排気ガスには無関心なのか.タバコの煙などより排気ガスのほうがよっぽど人体に悪影響がある.排気ガスによる車内自殺を聞いたことはあるが,タバコの煙による自殺を聞いたことが無い.
極端なことをいうと,東京都は23区内からのマイカーを締め出し,23区に近隣接する市には規制をかければよいと思っている.自転車を活用することをまず推奨する.交通機関としてのバスは残すがハイブリッドか電気自動車とする.業務用の車には行政が高い税金をかける.その税金で公共の交通機関に補助金を与えて利用料金を低く維持する.まったく機能していない現在のバスの時刻表が機能しだし,業務用の車は専業化されて輸送業が一括して役割をになうようになるから,さらに無駄が省ける.マイカーを締め出せば現在の車道に当てている土地利用の割合が下がるから,その代わりに歩行者用の道路や広場にあて人と人の距離感を今よりも疎にする.そうすれば,私にとっては今よりも健康的で人間的な環境を東京に創ることが出来るのではと思われる.
私は,自動車の免許を持っていない.大学生時代の経済的な理由もあるが.昔から自動車に対して疑問があったので,積極的に免許を取ろうと思ったことは無い.タバコとの比較もしたが,私はタバコを吸わないので嫌煙家に対する遠まわしの批判でももちろんない.心から「東京から車よ,なくなれ!」と願っている.
# by my9my9my | 2006-03-21 20:32
ituneのデータが壊れる
昨日の夜ituneで音楽を聴きながらインターネットを見ていたら,突然ituneがフリーズして見たことも無いないエラーが表示された.もう1度ituneを開くと曲が全て消えてしまっている.気が遠くなりそうだった.昨日の夜はふて寝して,今日の朝起きてしばらくぼーっとしてから気を取り直して,持ってるCDを取り出してパソコンに入れ始めた.1日がかりで終了.疲れたので寝る.
# by my9my9my | 2006-03-20 23:47
シンジュクニハルガキタ
昨日の昼から今日の朝までバイト.今のバイトは大学院時代ずっと続けている某病院の当直時間帯の受付業務の仕事だが,4月から設計事務所で働くのであと数回でこのバイト仲間達ともお別れになる.なぜか半分以上がT大生の偏差値が異常に高い職場だった.いろいろお世話になったのでバイト仲間には感謝している.
最近ヨドバシカメラのクーポン券が手に入ったのでこれを機会にヘッドホンを購入しようと考え,バイトの帰りに新宿に立ち寄る.品は以前から欲しかったAKGのk171.今までipodに付属のイヤホンを使っていたが,これからはこのヘッドホン着けて街中でもガンガン大音量で聴こうと思う.音漏れの心配もこれで無くなるはず.ついでにタワレコとディスクユニオンによってCDを物色する.4枚ほど勢いで購入する.リストは以下の通り.

1. ONJQ LIVE:ONJQ
2. Spiritual Unity:Albert Ayler
3. rec.extern:Radian
4. Eisotrophobia:Akira Rabelais

1は大友良英のONJQ時代のライブ盤.ジャケットの炎のようなデザインから,ハイテンションの爆音でジャズを演奏してるLiveと勝手に想像していたら,案外普通にジャズしていました.曲自体気に入っているのでこれからよく聴くと思う.
2はSTUDIOVOICEで何度か紹介されていて,以前から欲しかったが店頭に置いてなくて買えなかったのが,今日タワレコに行ったら3枚も置いてあり即購入.Aylerの狂ったようなサックスが延々と続いてる.フリージャズの中でもフリーさが極端に高いと思う.正直聴いていて辛くなってくる.私がまだ分かっていないのか,ただのでたらめなのかもう少し見極める時間が必要.
3はThrillJockyから出ているいわゆる音響系.ituneに入れたらジャンルがmetalと表示されて,だいぶ焦りました.メタルといったらヘビメタしか思いつきません.中身はやっぱり音響系.pansonicと似てるかなと勝手に思う.まあまあ.
4はピアノをメインに演奏して編集でちょこっといじってアンビエントテクノっぽく仕上げたような作品.ジムノペディに期待していたが普通のジムノペディでガッカリ.のんびりしたい気分の時にはいいかもしれない.
CDを買うときはamazonで視聴してから買うようにしているが,1分たらずのサンプルと実際とでは印象がだいぶ異なるといつも思う.ヘッドホンはフィット感はよいのだがコードが長くてしょうがない.持ち歩くのに何とかならないものか.

ところで新宿の街を歩いているともう春は来ているようだった.暖かいし,歩いている人の服の色も明るい色になってきた.お散歩にいい季節なので近いうちに東京を歩きまわろうと思う.

# by my9my9my | 2006-03-19 17:51
ノイズについて
ノイズについて書こうと思う.
あのノイズとこのノイズの両方についてである.あのノイズというのは所謂ノイズミュージックで,このノイズというのは自分がいる環境で生じてるノイズのことである.前者と後者の違いを端的にいえば,意識的にノイズを聞こうとしているか,していないかの違いだろう.ミュージックコンクレートは戸外で集めてきたノイズを切り張りして,「これも音楽だ」といっている.両者は聞く側の意識の違いによるから境界線はあいまいにぼやけている.
ところで,私はいつからかノイズミュージックが好きになった.どんな音楽を聴いてもどこかにノイズが混じっていないと物足りないのである.私がはじめて買ったCDはたまの「サンダル」で,小学生の低学年の頃毎日のように聞いていた記憶があるから,先天的にノイズ好きではなかった.大学入学時には自分がノイズのようなものが好きなことは自覚しており,ノイズが好きな人間が少数派であることも自覚するようになっていた.大学の友人にboredomsを聴かせても理解を示す人はごく僅かだった.
私は自分がノイズが好きになった原因がなんとなくは見当ついている.-きっと父親のK司だろう.
K司は病院で診断したことは無いだろうが,多分軽い精神病を患った人間だった.学校は定時制高校卒で頭も悪くコンプレックスの塊のような人間だった.母親にもよく暴力を振るっていた.K司には時々奇行があった.誰の少年少女時代の例にもれず,それが奇行と気づくのはある程度成長してからのことで,幼いうちはそれが当たり前だと信じている.
私が小学生の頃,K司は隣の家の犬が吠えるのが頭にくるらしく,その対抗策としてねずみ退治用の超音波発生器をどこからか買ってきて,隣の犬の方向に向けベランダに設置していた.その音の耳を劈く凄さといったら形容しがたいものがあった.反対してもやめないことは家族がみんな知っていたので誰も反対しなかった.その超音波発生器の数は日がたつにつれ増えていった.今でもあの高音域の「キュウィーン,キュウィーン」という音は記憶から離れずに残っている.1年程続けると本人も飽きたのかそれらを片付けた.
K司には癖のようなものがあって,居間に座っていても手は常に動いていて,物を動かしては「カタカタ,カタカタ」音を鳴らしていた.観察しているとどうやらテーブルの上のコップやリモコンには定位置があるらしく,その場所に置きたいのだが何度繰り返しても自分の納得いく場所に置けないという風だった.箸でも,灰皿でも,本でも手で持てるものなら何でもかまわず,物を動かしては元に戻すの繰り返しを「カタカタ,カタカタ」鳴らしながら,無意識に延々と続けていた.加えて,K司はヘビースモークから蓄膿症を患っており,よく豚のまねをする時のように鼻を「クガァー,クガァー」と常に鳴らしていた.さらに,のどに痰が絡む度に「クァー」,人前で平気でおならをするから「ブビーーー」と絶えず音を出していなくては死んでしまう,とばかりにK司の近くにいると騒がしかった.
私はこの馬鹿で品が無く気持ちの悪い父親が幼い頃から嫌いで嫌いでたまらなかった.しかし一般の人が耳障りと思うようなノイズに対して,私はK司のせいで耐性が出来てしまったようだ.テレビから流れてくる音楽の横でK司が音を立てている,それが私の音楽の原体験であり私の音楽の志向を決定した原因らしい.

ところが最近音楽の志向が変わってきたのである.それはまたの機会に書こうと思う.
# by my9my9my | 2006-03-17 21:25
誰に向けての御託宣なのか
私は大学院生活を終えて,今年の春から社会人になろうとしている.
大学院入学と同時期に実家の家計が傾いたことから,突然仕送りが止まってしまい,大学院時代は学費と生活費を稼ぐためにバイトばかりの毎日だった.私の頭が足りないことと,研究室の先生の厳しさが原因で論文が書けず1年留年もした.家庭の事情など研究室の人たちに言いたくなかったからずっと黙っていたら,先生からは研究もせずバイトばかりしていると思われ辛かった.何かうまくいかないとすべてお金が無い事のせいにしている自分がいて,そんな自分が嫌で嫌でたまらなかった.就職活動もまともにできず,公務員試験も受けたが失敗して,秋採用でようやく秋葉原の小さな設計事務所に内定が決まった.論文も大した成果は挙がらなかったが,形だけ整えて早々に提出し審査にも通って後は修了式を迎えるのみとなった.
大学院の3年間は目まぐるしい速さで過ぎていった.この3年間で身についたものといえば,物事を論理的に考えようとする態度と,認知心理学・論理学・人工知能・言語学・哲学等の学問分野の僅かながらの知識と,アートや音楽における志向の変化と,以前よりも強まった他人に対して自分のことを語らなくなる傾向である.
そして今に至っている.
このブログを立ち上げたのは,時間と金銭に余裕が出来始めていること,自分の思っていることを文章にして自分で確認することの重要性をひしひし感じていること,全く知らないウェブ上の誰かに読んでもらうことは知っている人に読まれることに比べリスクが無く,時にもらえるコメントには一般性があること等が理由となっている.
基本的には私が私自身で楽しむブログである.しかし,相手が誰なのか知らない人からでも,何かしらコメントをもらうとやっぱりうれしいもので,全く個人的な日記なら紙の日記帳に書けばいい訳で,ほんの少しだけ社会とつながっているブログという居場所が気持ちよさそうに思われたのである.
ブログは日記が中心となるが内容は私の興味のある建築,認知科学,アート,音楽の話題が中心になると思う.偶然通りがかった人がほとんどのはずだが,共感できること,反感あること,何か思うことがあれば自由にコメントしてください.誰に向けてのご託宣なのかというと要するにそうゆうことです.
# by my9my9my | 2006-03-16 21:04


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